無認可保育園には3ヶ月でしたが、公立保育園に入ると、役員として目をつけられるんですね。無認可保育園では、親たちがいろんなことをしないとやっていけませんでしたから、全員が役員という感じです。父母の会の役員はここから始まりました。しかし、そうは言っても、2番目、3番目を出産しましたので役員の係りはもっぱら夫がやってくれて、私は、あまり関わっていませんでした。せいぜい交流会くらいでしょうか。
この当時は、保育運動が盛んで、保育の学習を保育士から進められたのが始まりです。毎年、秋の署名運動があって、この取り組みの前には保育園内で学習会をしていましたから、署名活動への抵抗は少なかったと思います。職員と父母が組みになって戸別訪問し、署名を頂くということが、当たり前の状況でした。しかし、私が品川区に転居するときくらい(それよりも前くらい)から品川区の保育事業の転換が急激に起きて来ました。1995年に父母の園舎使用ができなくなり、1996年お泊り保育廃止、1997年に保育料アップと職員削減、1998年障害児加算の考え方が変更になりました。
1998年5月から品川区保育園父母の会連絡会(父母連)会長になりました。
私の父母連との関わりは、1996年のお泊り保育廃止の時なのですが、当時、2番目の息子が年長さんで、お泊り保育が急に廃止ということになり、父母連とは別の組織を結成して廃止中止運動を進めるという単発の会を各保育園の有志が集まって結成したのでした。出身の保育園父母の会の推薦の矛先が夫ではく、私にきたのでした。3番目が生まれたばかりで、動ける状況ではなかったのですが、数ヶ月の会ということもあって、引き受けました。この運動は、かなり盛り上がりましたね。結成会には250人は集まったと思います。毎週会合を開き、園独自でそれぞれ取り組み報告会をしていました。このときが始めて区議会議員の方々とお話をしたり、政治と関わりました。結果は厚生委員会へ園毎の請願書を提出して審議されましたが、当時の厚生委員メンバー1名差で不採択。この後、どうするかと話し合って、諦めず継続してこの運動を進めていこうとことになり、私も残ることになって行きました。1年間は何とか運動を進めていきましたが、不採択になると運動は急に冷め始め、メンバーも少なくなっていきました。この会が単独で維持できなくなり、父母連に吸収し、活動を続行ということになったのです。そうこうしているうちに前会長の熱い思いで父母連会長に推薦されましたが、お母さん会長は始めてで、他の役員からの反発も多くありました。保育料値上げの問題が浮上したのは、1996年の時で、お泊り保育運動と重なり、私はほとんど父母連の運動には関わっていませんでした。 |